「内助の功」の舞台は木之本か・・・!?

一豊は木之本の牛馬市で名馬を買った?

 山内一豊(伊右営門)の妻千代が、黄金10枚という大金をはたいて、主人のために名馬を買い与えたというエピソードは、「功名が辻」のドラマの前半最大の見せ場。司馬遼太郎は、その馬市は安土の城下で開かれ、東国奥州から曳いてきた逸物の馬だった、と設定している。が、一豊が住んでいた長浜から北へ4里の、一豊の生活圏ともいえる木之本では、それより400年も遡る平安時代末期から牛馬の売買が盛んに行われ、地元では、一豊の名馬は木之本で買い求められたもの、との話が伝わっている。
 安土は長浜から南へ10里。天正4年(1576)ごろ安土城の7層の天守が完成したとはいえ、城下町は建設ラッシュでごった返していた。そんな中で本当に牛馬市が開かれていたのだろうか。開かれていたとしても、木之本の牛馬市の方が伝統があって賑わっていたはずである。
 木之本以北の丹生谷、余呉谷一帯は古くから牛馬の飼育が盛んだった。「伊香郡誌」によると、「寿永2年(1183)、木曽義仲が京都を奪ったとき、摂政藤原基通は摺見村(現在の余呉町摺墨)の水上神社に武運長久を祈り名馬「摺墨」を得て源頼朝に献上したと云う。また、源頼朝が宇治川合戦の際、家臣梶原景季に与えた名馬摺墨(磨墨)は摺墨村の産という」とある。摺墨村のオコナイ行事の鏡餅搗の所作に「馬駆け」という搗き方があり、これは名馬摺墨号が鎌倉へ出発したときの喜び勇んだ足の運びを表現していると伝えている。
 木之本牛馬市の成立については、木之本地蔵院(浄信寺)が獣疫平癒にも霊験があるとされ、地蔵尊命日の旧暦6月と10月に牛馬を曳いて参詣するものが増え、売買が行われるようになり、中世末ごろには、牛馬市が成立していたとされる。また尾張国の伯楽某が尾張徳川家に献じた伊香郡産の馬を稀代の名馬として将軍に送って評判となり、尾張・伊勢・美濃の商人が当地で競って売買するようになったとも言われる。彦根藩はこの牛馬市を殊に重視し、藩の購入が終わるまでは他藩への売買を禁じ、本町通りに乗馬試験所を設けて保護奨励策をとったほどである。(平凡社・『日本歴史知名大系』)。
 山内一豊が名馬を買ったとされる時期は、秀吉の長浜城主時代で、秀吉と共に三木城攻めから帰った天正8年(1580)ごろ。一豊35歳、千代23歳。一豊が長浜城主になる4、5年前のことである。当時は、黄金3枚くらいで伊右営門屋敷はらくらく建つ、という時代に、妻のへそくり黄金10枚をはたいて、1頭の駿馬を求めたという話題が衝撃波として戦国の世を駆け抜けた。その大金は、千代が輿入れのとき、伯父の美濃3人衆といわれたほどの豪傑・不破市之丞が持たせてくれたものを千代が大事に残しておいたものと云う。(近江町宇賀野の長野家には、一豊の母法秀院が与えたと伝わる)
 木之本の牛馬市には武士だけでなく庶民も群がった。千代もその中にあって「あの馬なら一豊様を男にできる」とひそかに願ったのではないか。普段は生活費を切り詰めてお金を貯め、いざというときに用立てる。この美談は「内助の功」として、戦前の小学校の国定教科書にまで載ったのである。
 木之本牛馬市は北国街道の宿駅という交通の要衝ゆえに江戸時代を通じても賑わい、彦根藩の重要な産業ともなった。旧家の土蔵の中には往時の文書が残っているかもしれないが、現在確認されている最古の記録は明治9年(1876)のもの。それによると、当時20軒の宿があり、牛486頭、馬130頭、計616頭の商いが成立している。牛馬は、県下はもちろん、但馬、丹波、伊勢、美濃、越前、越後、能登、若狭などから集まり、800頭を超えた年もあったという。
 戦前の牛馬市の賑わいを知る人は、「売り手は各地から5頭くらいの牛馬をつないで2人組みで木之本へやってきた。1回の市は1〜2週間続き、牛馬は家の裏につなぎとめ、幟がはためく北国街道に曳き出して2百メートルほど歩かせてセリが行われていた。その間、売り手と仲買人が馬宿で泊まるので、宿泊費と売買手数料で町は大そう賑わい、潤った」と往時を懐かしむ。
 木之本牛馬市は、こうして昭和50年ごろまで続いてきたのである。戦後は馬の売買が少なくなり、牛市の様相を呈していた。昭和に入ってからの馬は、山林の伐採木の搬出用と馬車曳きとして運送用に使われ、牛は農耕用に使われた。戦後の牛馬市は、滋賀県と県畜産農業連合会の主催で行われ、国鉄の貨車で子牛が全国各地から運ばれてきて、現在の木之本警察署裏の広場で市が立ったという。
 山内一豊の長浜在城以前から1970年代まで続いてきた木之本牛馬市こそ、『巧名が辻』の名馬の舞台だったといえるのではないか。

(伊香郡誌〜木之本の牛馬市)
 木之本における牛馬市の何時の頃より創設せられたるやは祥かならざれども、慶安の頃牧業大に開け駿良の逸足を算出せる事頗る多かりし事は当時の記録よりて明らかなり。
 然れども市場の開設は遥かに古く、足利時代の末期において開市されたるものならん。是より先、源頼朝が宇治川の合戦の際某臣景季に与えしという名馬摺墨は、丹生の庄、摺墨の産なりと云う。其の後五ケ荘池原に名馬池原を産し、豊臣時代に至り名馬長尾を産せりという。徳川時代に至り、尾張の伯楽某、本郡産の駿足を得てこれを尾張候に就ぜしに、希有の逸物なりとて萬代と命名し、時の将軍に上れりという。