山内一豊が名馬を求めた
木ノ本牛馬市

    


【北國街道〜木之本宿】
 「木ノ本宿」は金沢城下を起点とし、
北陸と京を結ぶ「北國街道」の宿場
町であり、当宿を南下し鳥居本で中
仙道に合流した。また木ノ本宿を起
点とする「北國脇往還」は東海方面
への主要道として、関ヶ原で中山道
へ合流した。江戸時代は街道の合
流点として人馬の往来も激しく、旅籠
や商家が軒を連ね、街
道の中央には小川と柳
並木が続いた。
 旧街道筋は今でも古い街並が当時の風情そのま
まに残され、旧家の軒下には馬繋ぎの金具が残り、
うだつ、紅殻格子のあしらわれた平入り瓦葺きの町
屋や妻入り町屋の立ち並ぶ街並、旧本陣や造り酒
屋などが当時の賑わいを今にとどめている。
 また、戦国時代には多くの武将の行き交う戦略上
の要衝であり、賤ケ岳の合戦のおりには、東方の山
「田上山」に秀吉方の砦が築かれ、弟の秀長が守将
を務め、北陸勢(柴田勝家軍)と対峙した。
 また、街道の中央にある浄信寺(木之本地蔵院)
は、この合戦で討ち死にした中川清秀の菩提寺でも
ある。


  
乗馬用轡    博労用轡
蹄鉄
 馬の蹄につけた金具

蹄削り
 蹄鉄付けに蹄を削る道具
殿様の馬方が草鞋の上に履いた足袋
       
馬宿の帳場
         
 
馬主の蓑・草鞋   大釜とかいば桶
       
 茶壷
手鏡 


【黄金十両で馬を買う】
 山内一豊が織田家に仕え始めの頃、江州木ノ本の馬市でたいそう立派な駿馬が売られていた。しかし値段が高くてとても買うことが出来ない。そこで、家に帰り千代に事情を話すと、千代は鏡箱の底から黄金十両を取り出してきた。それは千代が嫁ぐ際「夫の一大事に使いなさい。」と実家から持たされたものであった。一豊はその十両で馬を買い求め、程なく信長が京で盛大な馬揃えを催した際、織田家の諸侯がそれぞれ自慢の馬にまたがり進む中、一豊の駿馬はすばらしく、見物客からも感嘆の声が上がった。その姿は信長の目にもとまり、貧しくとも武士のたしなみを忘れない心構えを褒められ、一豊の名は天下に知れ渡ったという。
 この逸話は、江戸時代中期に活躍した学者新井白石の「藩韓譜」や同時代の書物に記されており、当時話題になったことがうかがえる。また、武家の夫人としてあるべき姿として武家社会に知られ、さらに戦前の教科書において「内助の功」という徳目で取り上げられたことで千代の名は広く知られるようになった。


木ノ本牛馬市

 室町時代から昭和の初期まで、毎年2回この地区20件ほどの民家を宿として伝統の牛馬市が開かれた。
 江戸時代は藩の保護監督もあり地元をはじめ但馬、丹波、伊勢、美濃、越前、若狭などから、数百頭以上の牛馬が集まり盛況を極めた。
 商いの方法は、買い手が売り手の袖の中に手を入れ、双方が指を握って駆け引きをし、商談が成立すると両者が手を打ち、周囲に居合わせた人たちも拍手をして成約を祝った。また、木之本地蔵院(浄信寺)が獣疫平癒に霊験があると喧伝され、この牛馬市には良い牛馬が集まるようになり、牛は荷車引きや農耕用に、馬は主に武士たちが買い求めた。宿場通りの中で、本町通りの道幅が広いのは、牛馬市の際の試し乗りの場であったためと云われている。
 山内一豊が妻の嫁入りの金子で買い求めたと伝わる名馬は「馬宿平四郎」から出たと古くから当家に言い伝えられている。
(山内家資料 第一代 一豊公記より)
 一豊宇賀野在住の時筑摩村の木村伊織につきて馬術刀槍の法を習譜事五年間伊織は武士の功は良馬を選択するにあることを訓へたりき
 天承九年二月織田信長が京都に馬揃えを為す時一豊良馬を欲して資なきを嘆きしに夫人鏡より黄金十両を出し夫に良馬を買わしめたる美談は夫人にあらずして母法秀院なりと
 一豊が求めし良馬は木之本伊香郡の馬市にて買い求めたり其馬の売主は奥州信夫の者にて名を藤蔵といひ良馬を引きて越後の上杉甲斐の武田等を訪ひ途に信長の馬揃えあるを聞き江州に来たりし者なり

 ■開 館 日 水曜日及び土・日曜日
          (第3土・日及び年末年始休館)
 ■開館時間  午前9時30分〜午後4時00分まで
 ■入 館 料 大人200円
 ■交通案内 JR北陸本線木ノ本駅より徒歩10分
          北陸自動車道木之本ICより車で15分