木之本 一から九
企業情報 WebWebへ 木之本町観光協会へ リンク集へ ホームへ

木之本の


木之本一の黒田武士
一つとせー。「日の本い〜ちのぉ黒田節ぃ」の、黒田武士のご先祖様は、木之本町黒田に住んでいた・・・。

●官兵衛さんのことならこの人
 官兵衛とは、秀吉に、「ワシが死んだら天下を取る男」と言わしめた、黒田官兵衛如水のことである。彼が無名の一武将から名をあげたのは、長篠の合戦(1575年)であった。当時、天下第一の精強な軍団を擁していた武田氏が、織田軍に惨敗するとは、誰しも思わなかった。それを播州小寺家の家臣であった官兵衛は、家中をまとめて織田氏に帰服。織田軍大勝利により、黒田官兵衛の芽が初めて世に出たわけだ。
 木之本町黒田ー。黒田家発祥の地である。集落の中心の公共広場は、古くから黒田家屋敷と伝えられて来た所で、かっては農協や小学校の用地として利用されて来た。遊園地を造るためにブルドーザを入れると、「黒田判官源宗満」と刻まれた石が出てきた。これこそ、黒田官兵衛、長政と、安土桃山時代を彩った武将の初代であった。(語り部を称する藤田町長の一席)

●官兵衛は、黒田家9代目
「黒田家の遠祖は、宇多天皇の孫、雅信です。これが源姓を名乗って、宇多源氏と呼ばれました。雅信の孫、源成頼のとき、近江国蒲生郡佐々木の庄に移り住み、佐々木源氏と称しました。別に、近江源氏とも呼ばれています。
 近江源氏は、江南の六角氏、江北の京極氏と分かれ、京極氏の初代氏信の孫、源宗清、すなわち宗満が、伊香郡黒田村に住み、近在の領主として黒田判官と称したのが黒田氏の始まりです。官兵衛、つまり如水は、宗満から数えて9代目にあたります」
 藤田町長が、これだけ黒田如水に入れ込むのも、郷土が生んだ英雄というだけでなく、町長自身、早稲田大学入学の折りの保証人が、黒田家16代目の当主だったからでもある。
それはさておき、物語を聞こう。「初代宗清(宗満)から6代高政までは、京極氏に仕えました。1511年、山城船岡山の戦いで軍令に背いて先陣を切ったかどで、足利10代将軍義種の怒りにふれて一命を危うくしましたが、京極氏の取り成しで、一命は取りとめたものの、黒田村にはいられなくなり、一族郎党を引き連れて、備前邑久郡福岡村(現長船町福岡)に移り住みました。
 如水の先代、先々代の二代の間に、この地の名族にまでのし上がりました。福岡という名に愛着をもち、後に筑前の大大名となったとき、その地を福岡と呼び変えました。それが現在の福岡市です。」

木之本の