木之本 一から九
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秀吉機動部隊の若き精鋭たち
七つとせ。迷うことなく七本槍。賎ケ岳合戦で活躍した若き勇者たちの素顔は・・・?

 木之本の七は、御存知七本槍。羽柴秀吉と柴田勝家が、信長亡き後の後継者争いで激突した賎ケ岳の戦いで、秀吉軍に勝機をもたらす勲功を挙げた七人の若き勇者たちである。
 ここでクエスチョン。さて、この七人とは誰のことでしょうか。
 加藤清正。これはまず、かなりの人が知っているはず。
 福島正則。こちらも八割ぐらいの人が知っているはず(かな)。
 問題はこれから。加藤嘉明、片桐且元、脇坂安治。この人たちを知っているとなれば、かなりの博学。
 あと2人。うーーんとうなって、平野長秦、糟谷武則。ここまで知っている人は、多分1%もいないでしょう。
 七本槍は有名でも、全員の名前をあげることは、歴史の専門家でもかなり難しい。そして、この七人はどんな人たちなのか、賎ケ岳の戦いの後どうなったのか、それを知っている人もまた少ないようだ。

●9人いた?! 賎ケ岳の七本槍
 ややこしい話になるが、七本槍は9人いたことが史料で明らかになっている。あとの2人とは、桜井佐吉、石河一光である。
 桜井佐吉は秀吉の弟秀長に仕え、石河一光は、信長の四男で秀吉の養子になった秀勝に仕えていた。この2人は、どうして漏れたのだろうか。九本槍では語呂や縁起が良くないから、という説があるが、七本の理由ではあっても、2人が漏れた理由としては説得力がない。
 死人に口なし説もある。石河一光は賎ケ岳の戦いで戦死し、桜井佐吉もその後ほどなく病死したため九本が七本になったという。しかし、桜井佐吉は慶長元年ごろまで生きていたという説もある。
 三番目として、他の七人は秀吉直臣、この2人は陪臣(直属の臣ではない)だからという直臣説もある。
 ところで、七(九?)本槍は、当時「一番槍」と呼ばれていたというのだから、話はますますややこしくなる。私たちとしては、七本やりとは、秀吉軍団の若きニューヒーローと覚えておけばよい。

●秀吉軍団七人の素顔
 ややこしい話はひとまず置いて、七人の武者たちを簡単に紹介しよう。
 筆頭は福島正則と加藤清正である。正則は秀吉といとこ、清正はまたいとこという、秀吉に近い血筋に当たり、秀吉恩顧の大名としても有名である。
 身の丈6尺5、6寸という偉丈夫で質実剛健、豪気の武闘派だった清正に対し、正則は知謀を備え、後の検地奉行としての手腕に見られるように能吏でもあった。
 七本槍の恩賞が、他の6人の3千石んに対し、正則のみ5千石であったため、清正が怒って秀吉の感状を突き返そうとしたというエピソードがある。実際、この2人は、自他共に認める秀吉軍団最強のライバルでもあった。
 秀吉の死後、両名とも武断派先鋒として、石田三成を中心とする吏僚派と対立。関ヶ原の合戦では東軍について勝利を得たが、旧誼忘れがたく、これが災いして正則は領地没収の憂き目に遭い、清正も毒殺説があるなど、戦乱の世から近世に向かう時代の中で翻弄された武士の悲劇が待っていた。
 さて、豪胆といえば、加藤嘉明、脇坂安治もなかなかの人物である。
 嘉明にはこんなエピソードがある。清正の虎退治の話は有名だが、朝鮮渡来の虎を諸将の前に引きずり出した席で、嘉明は居眠りをしていてこれに気づかず、前を通り過ぎた後で、「なんだ、虎が通ったのですか」と静かな口調で言ったという。
 安治はといえば、何度も秀吉の怒りを買いながらも自らの意志を貫き通し、かえって秀吉の信頼を得たという信念の人。しかし関ヶ原では小早川秀秋に同心、東軍に寝返った話は有名だから、一筋縄ではいかない。
 片桐且元は、浅井長政家臣の父をもつが、秀吉に仕え、その信任厚く、賎ケ岳の戦いの2年後、従五位下東市正に叙任。九州、小田原征伐では秀吉の旗本として歴戦、秀頼が生れると守り役につけられている。
 秀吉の死後、その遺命を守って大阪城に近侍するも、関係切迫する豊臣と徳川の間にあって淀君に疑われ、茨城城に蟄居。大阪夏の陣では関東勢として働いたため、豊富家を滅亡に導いた張本人の汚名を着たまま病没した。
 平野長泰は、賎ケ岳の戦い後も戦功をあげ、豊臣の姓を与えられるが、関ヶ原では東軍に与し、のち徳川秀忠に仕える。
 賎ケ岳七本槍のうち6人までが、関ヶ原において東軍についているが、最後に紹介する糟谷武則だけは西軍に味方し、伏見城を攻めている。敗戦後、所領を没収されたものの、2年後500石で幕府に召し抱えられる。武則については生没年が不祥で、詳細はわかっていない。

●天下とりのニューヒーロー
 賎ケ岳の戦いは、信長の後継者選びを行う清洲会議から始まっている。しかし、勝家がいかに優れた武将であり、善政を敷いた人物であっても、調略という面では、秀吉の方が、一枚も二枚も上手であった。
 山崎の合戦に参加できなかった事実、清洲会議で、信長の嫡孫を後継に推すという奇策により主導権を握られた事実は、すでに人心は秀吉に奪われていたということを物語る。
 賎ケ岳の戦いも、戦う前に勝敗は決していたのかもしれない。大垣・賎ケ岳間、52キロ5時間余の大返しにしても、秀吉軍の機動力というよりは、既に意図されていた作戦の実施のように思える。勝家の頼みの綱であった前田利家の戦線離脱も、秀吉が仕組んだといったらおかしいだろうか。
 こうした虚々実々の駆け引きとは裏腹に、秀吉軍団の先鋒として突進した七本槍は、彼らの若さとあいまって、秀吉には頼もしく、それからの天下取りの幕開けにふさわしいニューヒーローと映ったに違いない。
 新しい時代には新しい英雄が必要である。七本槍は、もう信長の時代ではなく、秀吉の時代であることを象徴する金字塔であった。
 

秀吉仕官 賎ケ岳合戦時年齢 合戦前石高 合戦功労 関ヶ原合戦前石高 合戦後石高
福島正則 14歳 23歳 1千石 5千石 清洲24万石 安芸備後49万石
加藤清正 9歳 22歳 170石 3千石 肥後25万石 肥後54万石
加藤嘉明 13歳 21歳 300石 3千石 伊予松山10万石 会津若松40万石
脇坂安治 30歳 3千石 淡路洲本3万石 伊予大州5.3万石
片桐且元 16歳 28歳 3千石 摂津茨木1万石 大和龍田2.8万石
糟谷武則 21歳 不祥 3千石 加古川1.2万石 没収
平野長奏 25歳 3千石 大和田原0.5万石 大和田原0.5万石
桜井佐吉 秀長の臣 3千石
石河一光 秀勝の臣 3千石


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