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動かぬお地蔵さま
それは、眠たくなるような暖かい春の日の昼下がりのことでした。
どこか遠い遠い南の方から、一体のお地蔵さまを背負ったお坊様がやって来ました。その人はどこかにお地蔵さまをお祭りする良い場所はないかと、探し探して長い旅を続けているのでした。
その日、1本の大きな柳の木の下を通りかかると背中のお地蔵さまが急に重たくなりました。
「ああ重いなあ、それにずいぶんくたびれた。ここでちょっと、一息入れようかい」
と、お坊さまは柳の木の下へお地蔵さまを降ろして汗をぬぐいました。
見渡すと、はるかに伊香の入り江の青い水が見え、野には、菜の花やれんげ草や色々な花が咲き乱れて、うっとりするような眺めでした。
さて、
「ゆっくり休んで」すっかり元気になった。さあ、ぼつぼつ出かけようわい」
と、お坊様は再びお地蔵さまを背負おうとしました。ところが、これはどうしたことか、先ほどまで背負えたお地蔵さまが、重たくて重たくて、
「うーん、うーーん、どっこいしょ。もう一つ、うーん、うーーん」
いくら力んでもお地蔵さまは地面から生えたようにびくとも動かないのです。しばらく間をおいて、また背負おうとしましたが、どうしても動きません。何度やってみても同じことでした。
そこで、お坊様は、
「ああ、わかった。お地蔵さまは、この柳の木の下に住もうとおっしゃっているのだ。
この土地こそお地蔵さまをお祭りする場所なのだ」
と思って、そこにお堂を建てて、お地蔵さまをお祭りしました。
柳の木の下にお祭りしたので、いつしかこの土地を「木之本」というようになり、お堂には、「柳本山金光善寺」と名がつきました。
白鳳3年のことだったといいます。
*金光善寺は今の地蔵院浄信寺です。
だましぎつね
昔、古橋のある山には、何匹ものきつねが住んでいました。その山に、枝うちに行ったおじいさんは、大変な芝居好きでした。その日は、仕事が終わらず山小屋に泊まることになりました。
おじいさんは、うつらうつらしていましたが、どうも辺りの様子が変なので目を開けると目の前に見たこともない芝居小屋がありました。
おじいさんは、きつねの仕業だなと思いながらも、中に入って見ることにしました。
やがて、チョン、チョンと拍子木がなり、幕が開きました。
「あれ、おかしいな。右から開けるのに、反対から開けよったぞ」
と、つぶやくと、今度は右から開きました。
おじいさんは、幕の開き方や、芝居がおもしろおいのでそのまま黙って見ていましたが、いつの間にか夜も明け、おじいさんは楽しい一夜を過ごすことができました。
おじいさんは、
「きつねよ、中々おもしろい芝居じゃったわい。今度また山で泊まったときにも見せてくれよ」
と言うと、芝居小屋は跡形もなく消えてしまいました。
それからというもの、きつねは自分のしたことが、おじいさんにばれてしまって、恥ずかしいのか、二度と芝居を見せなくなったということです。
牛馬市と試し乗りの馬道
昔、お隣の余呉(片岡や丹生)では、馬をたくさん飼い、木之本では牛馬市が盛んであったといいます。
「内助の功」とかで、よくお話にも出て来ますが、織田信長が、馬揃いをした時に、山内一豊の奥さんが、何かの時にと貯えていたお金で買い求めた名馬は、この木之本の牛馬市で買ったものと言われています。
また、今、本町通りと呼ばれている道幅が広い通りは、牛馬市があった頃、武士が買い求めた馬の、試し乗りをするために広いのだという話があります。
つい、5,60年前までは、道の真ん中に川があり、川岸には柳が植えてあったとのことで、馬市がたち、試し乗りの馬が、駆けている様子など頭に浮かべると、段々昔に帰って行くような気がしてくるものです。
久我谷ぎつね
昔、川合に彦根の殿様に仕える武士が住んでいました。その人は山奉行で、久我谷山の麓に住んでいました。
その頃武家は、どこでも家の守り神をお祭りする習慣があって、その山奉行の家にも、龍神がお祭りしてありました。
ある時、大雨が降って、高時川が大洪水をおこしました。
村人たちは、危険なので近くの山に逃げて、心配しながら村を見ていると、ほとんどの家が流れていきます。
山奉行の家もいよいよ浸水して、流失寸前までなりかけたとき、村人たちはその屋根の上に金色に光るものを見ました。
「あのひかるものは何や」
と、大騒ぎして眺めていましたが、不思議なことにその山奉行の家だけは水に流されませんでした。
やがて、水も引き村人たちは麓に帰ってその家を調べてみますと、何処も傷んでいないので
村人たちは、
「不思議なことがあるもんや。あの光ったのは、きっと龍神様や」
と、噂をしていました。
そんなことがあったある夜、山奉行は夢の中で龍神様に会いました。
龍神様は、
「もうわしの役目も終わったので、小谷山に帰ることにした。でも心配するな。使いのきつねを久我谷山に残し、川合の村を守らせるから」
と言って、小谷山にある大きな洞穴に身を潜められてしまいました。
あくる朝、山奉行は龍神様をお祭りしてある床の間を見ると、そこには、もうお姿は見えませんでした。
それからというもの、川合の村に何か不幸なことが起こる前には、久我谷山のきつねが鳴いて、村人に知らせると言い伝えられています。
片目蛙
昔、木之本のお地蔵さんの辺りで、一人の旅人が、急に目が痛くなり、じっとうづくまっていました。
お地蔵さまはこれを見て、
「こりゃあいかん。早よ直してあげにゃあ」と思われましたが、自分は動くことができません。そこで、あたりを見回され、自分の足元にカエルがいることにお気づきになりました。
そこで、カエルに
「のう、カエルや、すまんがあの旅人におまえの目をやってくれんかい」
「はい、わかりました。でも、両目とも失くなると、この世のことが見えません」
と、答えました。
「それじゃ、片目だけでも」と、お地蔵さまは、カエルから片目をもらい旅人に上げなさった。おかげで、旅人の目は直ったということです。
今でも、目の地蔵様として、境内の隅の方で人々の暮らしを守っておいでになります。
また、お地蔵さまに棲むカエルは、片方の目がつぶれているということです。
弘法の堀切り
東に頭を向け、尾を西に横たえ、長々と寝そべった巨大な鯨のような湧出山が、西の賎ケ岳山系に続き、余呉湖から流れ込んだ水をせき止めて、深い深い底無し沼をつくり、対岸の木之本地蔵の石垣近くまで広がっていた。
一枚の青い布地のように広がった沼の向こう岸に見えるお地蔵さんにお参りするためには、大変なことだった。
賎ケ岳の山裾を北へ、黒田の観音さまを経てもう一つの山際を回ると北国街道に出る。そこから南へ約半里(約2キロメートル)行って、お地蔵さまへお参りするのである。
道のりは、約2里(約8キロメートル)、山道あり湿地あり参拝するための苦労は、並大抵ではなかった。
この地蔵さまの真向かいが、西山にある「伏拝み」であった。その西山に毎朝一日も欠かさずお参りし、遠くお地蔵様を伏拝んでいる一人のおばあさんがいた。
ある朝、いつものように「伏拝み」へ来て、お地蔵さまに向かって熱心に拝みながら口の中でぼそぼそつぶやいていた。
「ああ! この沼を真っ直ぐに渡れたらどんなに村の人たちが喜ぶことだろうになあ」
ふと、人の気配に振り返ってみると、そこには墨染めの衣を着て肩に笈を背負った見知らぬ旅のお坊さんが立っていた。お坊さんが、おばあさんに向かって言った。
「おばあさん、おばあさんは本当に毎日熱心にお参りしますのう。ご褒美をあげましょう。明朝一番鶏の鳴く頃、ここにおいでなさい」
と言うと、すたすたと南の方へ去って行った。
おばあさんは、半信半疑で翌朝まだ日の昇らない頃、「伏拝み」へやって来た。するとどうだろう。昨日まで満々と水を湛えていたあおの大きな沼が、一夜のううちにすっかり干上がっているではないか。おばあさんは飛び上がるほど驚き、大喜びで西山の村をふれ歩いた。
湧出山の西の端、賎ケ岳山系とつながる地先が切り開かれ、沼の水がとうとうと流れていた。
このお坊さんこそ弘法大師さまであった。そんなわけで、ここを「弘法の堀切り」といっている。
*笈−書物などを入れて背負うもの
湖底の鎧武者
もう200年も昔の夏祭のことや。山梨子村の若者がこんなことを言い出しよった。「竹生島の底には、千畳洞窟いう大きな洞窟がある言うけど、ほんまやろか」「よし、確かめてみよやないか」こうして2人の若者が、洞窟探しに琵琶湖に潜ることになったんやと。
だいぶ潜って、水が急に冷たくなったときやった。確かに大きな岩が穴があって、黒い口がぽっかり空いておるやないか。恐る恐る中をのぞこうとしたとたん、鎧をつけた侍の手がにゅーと伸びてきてな、2人は穴の中に引きずりこまれてしうたんやと。
「おぬしら、我らを捕まえにまいったか」
「いんや、わしら山梨子村の百姓で」
「戦いは、戦いはどうなった」
「賎ケ岳の合戦は200年も前と聞いとります」
「なに、200年も前じゃと」
洞窟の中におったのは、何十人もの傷ついた鎧武者たちでな、皆賎ケ岳の合戦に負けて、竹生島まで逃げ切れんと沈んでいった武者たちの亡霊やったのや。その無念の魂と、故郷恋しさ人恋しさで200年もの間、この洞窟ですすり泣いておったのやなぁ。2人はこの武者たちを哀れに思うてな、寂しいときはいつでも山梨子村に来ておくんなされ言うて村へ帰ったんやと。
それからや、湖から吹いてくる風の中に、人の泣き声が聞こえたりする日はな、「洞窟の仏さまが泣いておられる」そう言うて、酒をついで武者たちを迎えるようになったんやと。今も竹生島の裏には、大きな洞窟があるんやが、それがこの話のものかどうか、誰にもわからんけど、厳しい戦乱の時代を生きてきた、ぎょうさんの民の悲しみや苦しさが、こうした話を生んだんやないやろか・・・。
木之本むかしむかし
木炭自動車の利用
日本人の智恵が驚嘆された。木炭を燃料として走る自動車が開発された昭和初期、当時のバス・トラックはすべてが木炭車でした。
そのころの中学生は、夏休みには炎天下の土道の国道を自転車に乗って琵琶湖飯の浦へ泳ぎに行っていました。木之本駅より西へ1km進むと坂道(旧国道)で、賎ケ岳トンネルまで自転車に乗って上がることは非常に苦しいことでした。自転車を押して、歩いて上がると約10分もかかります。そこで坂道では速度が落ち、喘ぎながら上がる木炭トラックに引っ張ってもらうことを思い付きました。
坂道の上り口でトラックの来るのを待ち、さあ来たとなると、少し伴走しながら最後部のボディに手を掛け、引っ張って上がってもらい、歩く時間と少しでも長く泳ぐための体力の節約にと、再三利用していました。2〜3時間ほど泳ぎ、この手を使い、少々の砂埃は我慢してスピードの遅い木炭自動車のお世話になっていました。
結婚披露宴
昔の結婚式は、婚家の仏前で行い、披露宴もその家の手料理で行いました。1ケ月ほど前に、「○月○日午前11時より当家において、長男○○のささやかな結婚披露宴を行いますのでご出席云々」の案内がされます。招待当日の午後1時、招待先より着物に羽織の使者が来ます。
「そろそろお時間ですのでお越し下さい」これが第1回目の案内(呼びふれ)。3時頃に第2回目の案内。それから予約しておいた床屋で散髪、風呂に入り紋付き袴に身なりを整えた午後6時前に第3回目のお招き。隣同士誘い合って伺います。招待時間1時から5時間後が正当な時間である、という古いしきたりがありました。
いわゆる「木之本時間」で村の寄り合いにも昭和中頃まではこの習慣が残っていました。
披露宴席は正面に向かい右側が大切な隣の者の席で、上座は近所の長老なのですが、長老は近所付き合いの新婦と固め杯を交わすときに祝言の謡曲を謡う決まりがあって、上より1・2席に座ることを非常に拒みました。そのため親戚の方々が、席を拒み、座り込む目当ての長老を抱きかかえて無理矢理に座らせる、にぎやかな一場面がありました。
いよいよ披露宴が始まると、会場である座敷の電灯が消されます。正面左右に飾られ、錫で作られた高さ1m程の燭台(ろう燭台)のろう燭に火が点けられて契りを固める杯の交換儀式が行われました。
披露宴が終わり近くになると招待先より隣へ、家紋入りのぶら提灯を預かりに来ます。これが、披露宴も終わり近くになった知らせとなります。
お招き先の前で明かりの入ったそれぞれの家の提灯を高く掲げ、万歳三唱でお開きとなります。給仕の親戚の方が湯飲み茶碗のような杯に熱燗1寸注いでは、失礼しましたとばかりに勝手元に下がり、熱燗をまた注ぎます。この繰り返しの給仕を正直に受けて、足の立たない人や足元のおぼつかない人を、親戚の力持ちが送り届ける大仕事がしばらく続きます。このようなシーンがないと盛大な披露宴と言われませんでした。
それから約5日後、板場流しと言って結婚式や披露宴でお世話になった親戚の方々との水入らずの慰労が披露宴を上回るご馳走でにぎやかに行われます。立派な鯛の引き出物付きの高膳で、幾品ものご馳走に、夜も更けるのも忘れ、飲めや唄えの大宴会となります。
最後は親戚の自称名音頭取りの江州音頭で、座敷の床も抜けんばかりに親戚の総おどりとなります。
板場流しが終了して、はじめて嫁もらいのハッピーエンドとなります。

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